わたしという自意識の復権と死。

 日記を一時公開にしました。こんな自意識の枠にとどめられた自分の中の黒い世界を見せるのは、自分がネクラな内向的人間ってことを公にしてることのような気がして知っている人に見られるのがとても気にかかる。尾崎豊の歌ではないが、自分が誤解されていやしないか気になってしょうがない。だから公開するのは大いにはばかられる。
 
 しかし、日々の生活で本当は偏屈な自分を殺し続けるのに疲れるとこうやって言葉を自由に開放することを欲してくる。しかも誰かに知ってもらいたいという願望もあるから困ったものだ。
 
 自分を殺さず、生かすにはどうしようかと考えていると結局結局文章を書くことが薬なのだろうと思ってくる。他にカラオケにいってメタルをシャウトすることも薬ではあるが。私は誰かといても、どうしても暗い方向に物事を考える傾向があるため、一人でいることを選んでしまいがちだ。素直に言葉を思いつくまま発することのできる人とは言わんともしがたい距離ができるため、多くの人に暗い奴で絡みにくいと思われていることだろう。

 昔はそんな自分がいやで、認めたくなかった。いや、今だっていやだ。明るくて外交的、おまけに成績もよい弟のような人間に劣等感を募らせていた。だからなのか、ヘビメタといった音楽や野球など横道に熱中していくわけだ。自分を認めたいがために誇れるものが欲しくてたまらない。

 しゃべらない、クールだ、愛想が悪いだ、そういった形容詞に自分があてはめられるその歯がゆさを何度味わったろう。今までもっとしゃべれ、と部活で前のキャプテンにさんざん言われ続けだんだんその人に腹が立ってきた。黙れよと。そうした言葉の言外に俺が俺であってはいけない、チームから見てよくない存在のようになっているのかと感じてきた。無言のうちの人格否定が未熟な私にとっていちばん堪える。

 当然いまでも辞めたいと思うことも絶えない。全員と仲良くするのは不可能で、考えていたらきりのないことなのかもしれないが。そうした自意識の枠を狭めていくと窒息して死んでしまう結末も想像に難くない。ところが困ったことに内向的人間にとってマイナス思考は癌であり、美徳であるのだ。癌のリスクを承知で喫煙を続ける医学生のように、分かっちゃいるけどやめられないのだ。この自分と社会との立ち位置の折り合いをつけることが、青春時代から大人への分岐点での大きなテーマだと思っている。

 実家でいたときはよかった。男はつらいよじゃないけれど、こんな道はずれ癖のある私にも両親は優しく愛情を持って接してくれた。常に気にしてくれ、矮小で揺らぎやすい存在である自分もすこし安定することができた。それでも青春時代の心の揺らぎはすさまじく、今思うと心はたいへん荒れっぽいものであったと今想起するが。

 
 ずっと一人でいると孤独感にさい悩まされる。しかし逆説的に、友達と一緒にいても節々にその人の発した言葉のとげがいちいち引っかかるので、一人のほうが傷つかなくてすむのだ。言葉のアンテナを無意識のうちに鋭く張り巡らせるということは、己に刃を向けるようなことなのかもしれない。だんだん切っても切り離せない孤独とどう向き合うかが、私の宿命なのだろうと最近は観念してきた。

 とにかく私はろくな人間でないという観念が浮かんでは消えるように、心の偏向はいかんともしがたい。ほんとうに一人でいるとこんなことばっかし考える。そんなならいっそ死んだほうが楽じゃないのか。なにをやっても空虚な考えが隙間風のように入ってくる。

 
 春休み明けの新学期に、うまく皆の前で何も変わらない自分を自分自身すらだましてまじめな学生を演じきれるか心配でならない。春からの解剖、そして延々と続く医学の勉強でいつ何時自分が医者になることを本気であきらめても不思議なことではない。親の期待する道をのんびり進むなまぬるい気持ちでなく、他の道なき道を切り開く気持ちで行けば、もっと強い心が生まれていたのかもしれないが。入り口で迷った挙句決心する作業を抜かすと、こういった悩みが絶えないのです。俺ははたして今自分を生かしきれているのだろうか。芸術とか文系の道に行ったほうが、もっとよかったのじゃないか。自由だからこそやめたい、という気持ちは点滅しっぱなしだ。
 

 黒澤明監督の「生きる」という映画のように、死を前にして始めて人は本気で生きることをはじめていくのかもしれない。ただ地道にミイラのように自分を殺して何もせずに退屈な役所勤めを続けた主人公が、癌で余命いくばくもないと知ってから、人が変わったように人のために巨大で複雑な役所という組織に立ち向かっていく。
 この映画は、精一杯今を生きるべきだという逆説的なテーマが隠されているような気がしてならない。主人公のいのちみじかし、恋せよ乙女と歌うシーンは心に不思議な力で迫ってくる。

 やっぱりいのちみじかし、である。私が黒澤明監督をはじめ春休み見た多くの映画から学んだことは、若いいまを生きるのだという教えなのだ。ヘビーメタルの妥協を許さないストイックで完壁主義な世界観は自分に大いに役立っている。すべてに意味があると信じてこの切ない人生を自ら死なずに生きていけたら。