女子フィギュア

女子フィギュア、その戦いは非常に見ごたえがあった。キムヨナと浅田真央の対決が大々的にクローズアップされたが、結果はキムヨナが大差をつけての金メダル獲得となった。

銀盤で大観衆の注目を一身に浴びる彼女たちは、当然自信を持って堂々と演じる私というものに誇りを持っている。実際そうでないと心理的につぶれてしまうのではないかと思えるほど、オリンピックという大舞台は選手を飲み込んでしまう。
実力的に金メダルの大本命だった選手が、4年に1度のオリンピックではミスを繰り返しまさかの順位に終わってしまうことも珍しくない。

今回の女子フィギュアの金メダル大本命は、韓国の19歳キムヨナである。彼女は前年から出場する大会でほぼ1位をとっており、ガチガチの金メダル候補最右翼だ。言動も自信がみなぎり、その若さで女王の風格すら漂わせている。一方、そのライバルとして挙げられるのは日本の19歳、浅田真央である。因縁の2人、マスコミはそう評してジュニア時代からこれまで幾度と無く戦ってきた。

不世出の天才スケーターが同世代に2人、しかもアジア人として登場してその上日本と韓国というこの上ない対決図が世間の関心を集めた。2人をめぐる輪が国同士の威信をかけた争いにまで生じかねないほどになったのだ。
もともとスポーツはその国の国力をはかるようなところがあり、国の豊かさや強さが無言のうちに問われている。それはつまり経済力にも深く関わっていて、先進国は当然オリンピックで上位を大半が占める。

つまり、彼女たちにとってはもともと私が私であるため、輝くための表現であったスケートがいつのまにか国を巻き込んだ大きな関心事となり、本人が知らないところで希望、夢が巨大化していったように思う。
浅田真央は宿敵韓国を破り、金メダルを取るように。キムヨナもまた永遠のライバル日本を破り金メダルを取ってくれるものと本人たちの脳裏に知らず知らず植え込まれていったのだろう。

そしてフリーは相手を意識したかのようにコスチュームは赤と青、完成度を追求した演技とジャンプにこだわった演技。
彼女たちの私が私であり、私が一番になるための戦い、ひいては国を背負った戦いは強烈なものだった。
ショートプログラム浅田真央はほぼノーミスで終えたが、その次のキムヨナは知らん顔で自分の磨きあげた演技で、私が一番だと観客に見せつけるかのようにあっさりと浅田真央の得点を超えてしまう。
その後の会見で二人並んだ時、キムヨナは浅田真央を特に意識せずに上から見下すかのような発言をしていたのに対し、浅田真央ははっきりとキムヨナを意識した発言をしていたように見えた。

また、浅田真央がたびたび「ノーミスで終わりたい」と発言していたのが私は気にかかっていた。頭の中でミスをしまい、しまいと守りに入ってしまいやしないかと。ミスをしまいと思っている時点でマイナス思考であり、思い切った滑りの妨げになりはしないかと。

実際浅田は連続ジャンプで1回ミスをした後、足に氷を引っ掛けてうまく飛べなかったり明らかに勢いをなくした。
きっと誰もがミスをした瞬間思ったであろう。浅田真央はミスをした。金メダルはキムヨナだ・・。
浅田自身もそう思ったに違いない。諦めがその後の演技の勢いをなくしたのは明らかだった。キムヨナの後、凍りつくような緊張の中固唾を呑んで見守った観客の落胆が浅田に降りかかり、その瞬間彼女は敗者となったのである。

浅田の前の演技だったキムヨナは淡々と、しかし私が女王よという絶対的な貫禄を見せ付けるかのような滑りを見せた。彼女はきっと自分自身を絶対的に信じていたのだろう。私が一番だ。絶対一番だと。その裏付けがあるから何も動じず自分の最大級の演技をやってのけた、まさに勝者のメンタリティーを見た気がする。終わってからのバックでもその顔は自信満々だった。私が一番よ、どう、わかった?ともいわんばかりの顔で。

試合後浅田は泣いていた。無理もない、最強の敵と真正面からぶつかり、そしてそれはきっぱりと認めざるをえない完敗だった。観客そしてテレビの前の誰もがキムヨナの滑りの後思ったであろう。これは勝てない、と。でも本人そして日本国民が一縷の望みをもって見守った中でプレッシャーに沈み、負けてしまった事実が彼女の肩にのしかかったのだろう。

しかし浅田の涙は高校球児の涙のように清く、まっすぐ心に響くものであったように思う。彼女の負けず嫌いはきっと一番の大きな才能であり財産である。幼い頃から姉の舞と競い、敗れては努力を重ねそして日本を代表して期待を一身に背負うまでになった彼女。背中を追うライバルは今までは姉、そしてこれからはキムヨナがいる。きっと浅田は負けたこの日からさらに強くなれると期待を抱かせるようなそんなすがすがしく夢のこもった涙であったように思う。

日本人はほかにも安藤美姫というメダル候補のスケーターもいたが、今一歩メダルには届かなかった。
彼女のスケーティングは技術的にスピードが不足していたように思う。見ていてニコライコーチのもと、表現力に磨きをかけたというがもう一歩自分の殻を破れていない印象だった。彼女はまだできる。ぶっ飛ばした勝負をしていない。
それは若さもあるのかもしれないが、感謝の気持ちを込めてという言葉を繰り返していたことから推測するに、自分との戦いに終始していた印象がある。

当然オリンピック代表なのだからプライドもあるだろうし、私が私らしくあるための演技、表現を追い求めていかないといけない。そしてそれは突き詰めれば勝負を超えたものになる。当然人生をスケートで表現することになるだろうし、彼女がそれを表現できるにはまだ時間が必要かもしれない。カナダのロシェットにしても、アメリカの高校生(日本人じゃないほう)にしても自分をうまく銀盤の上で表現していた。私を見てください、私はここにいますと。点数、技術を超えた輝きをしていたように思う。

フィギュアスケートはスポーツであり、芸術であるところにこの競技の奥深さがある。
心を打つ演技には技術を超えた気がきっと存在している。突き詰めて言うならやはりそれはスケーターの人生であり、生き方がにじみ出てくるものだろう。だとすると終わりの無い、妥協の無い世界だ。

すべてのスポーツはそうした道に通じている気がしてならない。仕事にしてもそうだ。人生を通じて自分を表現できる仕事・趣味には、終わりの無い旅がきっと待っている。それがきっと私たちを熱く燃やす魂なのだと心のどこかで感じ、僕らは日々を過ごしていくのだ。

突き詰めると生きるとは何かという根源的なものに通じないものは存在しない、それがスポーツのすばらしさであるように思う。