持つべきは語り合う友

今日(夜寝てしまって、朝日記を書いたので昨日)は朝9時半ごろ起き、ゆっくりと2限の英語の授業に行った。

英語の授業はフランクなおじさんが先生で、ゆるい感じなので休む人もちょくちょくいる。厳しい試験を切り抜けていく医学生は適度に手を抜くずるがしこい能力を持った人がいるのだ。

僕は不器用なタイプで、授業をサボると罪悪感が強くなるのであまりサボったりはしない。また、授業中もつい話を聞くタイプだ。頭はそんなによくないのでいっぺんには知識がつかないが一種の強迫観念かもしれない。

不器用にしても自分の生き方で、それに価値を置いているのだから仕方の無いことなのか。どちらにしても自分を納得させる為の見えざる意思かもしれない。

そして午後から泌尿器の病理実習ということで顕微鏡をのぞいてすごした。
僕の隣のいっしょの留年した仲間の一人がインフルエンザ濃厚接触者で休んでいた。僕も京都に行く前からずっと咳がとまらない。

黙々といつも通りスケッチを描いて、帰って勉強しようかとも思ったが帰って家の掃除をすることに。
昨日まで泊まった家がきちんと掃除されていたので、自分もきっちりしなきゃと思ったようだ。カーペットがひどく汚れていた。

そして、7時過ぎに友達と僕の車でイオンモールのスーパーに行った。
鍋をしようと食材を買い込んだ。ここのイオンはさすがに広くて食材が多い。

それから家の戻って友達と鍋をした。tとは1年のときから一緒に鍋をよくしたけれど、今年は初めてだった。
彼と昨日まで行った旅行のことやお互いどんな人がいいかとか、芸術論などについて語った。

彼とは昨日までの仲間とはまたちがった話ができる。興味が似ているし、頭もいいのでちょっと知的な会話ができる。いろんな洞察力、感性がけっこう似ている。

物静かなタイプの人だが、そういった気づきの共有ができるのはこの大学で見つけたとっても大事な友だと思った。だからこそ同じマンションにいるのだろうか。

私はともすると今の医学の勉強とかより人生とはとか内面の動きに興味を持ってしまう。そしてそこから派生する文学、音楽などに惹かれる。
ニルバーナがなぜ死んだか、その世界観の含意や昨日書いたアブリルの1st
にしてもある意味ネガティブな思考から生まれた大きなパワーが感じられる。
アブリルの3rdはけっこうハッピーなメジャーコードって感じだったので、そこにはアブリルは絶えられず離婚したのでないか、カート・コバーンも名声に満足することなく自分の世界の深みにはまることで自殺してしまった。

最近思うのは、ネガティブな感情は必ずしもマイナスでなく、プラスになりえるということだ。すべては紙一重で、違う側面から見たらプラスだないのか。
海外に行ったら無宗教は理解されなかったりもするし、そういった新しい価値観の発見は大きな知的体験なのだ。そういった意味で今の時期に行ったあのヨーロッパ旅行は貴重だったし、勉強になったと思う。人とのつながりにおいても、自分の考えを広げてくれたことにおいても。

普段忙しいと、いかにして生きるかなんて考える余裕もないし、生きること事態に必死になってしまう。ある意味そうした哲学的な問いは社会的に見たら何もしていないとかネガティブな側面もあるが、自分にとっては大いに意味のあり、ある意味魂の高揚する瞬間なのだ。

多少浮世離れしているが、この問いを探すことが自分の人生で一番したいことだからこの世で体験するすべてのことで意味があるように思う。
医者に限らず、人生について考えるのは何かを突き詰めればそこに行き着く気もする。だから今の自分にもいろんな道がある。死ぬまでずっと。

そんな思いがあるから、他人にある程度理解されなくてもしょうがないのではないか。そういった自分の世界をおおっぴらにさらけ出すのは、社会的規範からしてあまりできない。だからこうした文章にして表現する。

貴重な対話のできる友人がそばにいることの喜びに気づいた夜だった。