旅と人生とちょっとした感動

今日の10時ごろに大阪・京都の旅から帰ってきた。
旅の詳しくは後ほど時間があれば書くとして、今日のことを書いてみたいと思う。

今日は1年生のとき教養課程で別の都市にいたとき、同じサークルでよく遊んでいた先輩で今は工学部4年生の人(sさん)と、1年生の冬休みにその人と農学部で2年上のサークルの先輩と一緒に行ったヨーロッパ旅行で知り合った人(kさん。ややこしや・・)と一緒に泉佐野にあるりんくうショッピングモールに行った。

朝、大阪で現場監督の仕事をして2年目になるその旅行でkさんの家に泊めてもらっていたため、そこで8時30分ごろ起きてショッピングモールに出発した。

前日京都で寺めぐりや夜景のライトアップを見に行ったりしていたので、1時30分ごろにくたくたで眠っていたのでなかなか起きるのも苦痛だったが、kさんが何も言わず早く起きて朝食を用意してくださり、朝食をとることに。


kさんは物静かな人で一見ぶっきらぼうな印象があるけれども、すごくやさしい人である。僕の2つ年上にあたる彼は多分僕に似ている。特に言葉を紡ぎ出すことが上手でないという点においては。でもそんなことなんか実際あまり気にしすぎる必要の無いことのかもしれない。人はしばしば自分で不幸になっているのかもしれない。

それはともかく、朝食は静かなものだった。というのも、sさんが静かだったからだ。なぜ静かだったかというと、kさんの機嫌がちょっとよくなかったからだ。

sさんは誕生日が2日違い(sさんが早生まれ)の同じ年というせいもあってか、僕に似た性格の人だ。やっぱりちょっとは育った環境とかもあって違うけれど。だから人の顔色を伺うところがあるのだ。誰かが不機嫌だと黙ってしまう。ちょうど弟と母が口げんかしている間口を閉ざしっぱなしだった私のように。

他人の気持ちに敏感って事は、そういうことなのである。
沈黙には意味があるのだ。人に気を使いすぎることは、人に気を使わせることにつながる。
一見sさんは自由で子供のようにのびのびとした無邪気な一面があるのだけれども、繊細な一面が多い。すべては表裏一体なのだ。180度違うものはほんのちょっとした違いである。ほんとうにちょっとしたものだ。

そして朝食後、僕の車でりんくうに向かった。大阪府北区からずっと一人でアクセラで運転したのだが、最初はそのちょっと朝の気だるい沈黙が胃に痛かったのだけれどもやがて2人とも眠ってしまっていた。ここで僕のやる気は下がってしまった。

会話って難しい。上辺だけ撫でようとする言葉には力が無いな、とか思っていたら発する言葉がなくなってくる。しかも発する言葉によってはその空間の空気を凍らせて、自分の首を絞めてしまうのだ。ともすればやってくる沈黙に耐えることが常となっていく。さながら進むも地獄、引くも地獄。

大阪の町の勝手が分からない上に、ナビに従ってもナビが違ったりして大いにほかの車に迷惑をかけたが、ようやっとたどり着いた。
それにしても車線が多すぎてやばい。目の前をびゅんびゅん車が鼻先をかすめて交差していく。都会は刺激的だ。

そしてアウトレットモールに着くと意外に楽しかった。個人行動したが、ナイキショップなどを見ていて、ちょっといいなと思うのがあったけれど買おうか買うまいか迷った。物欲はこういったものを見ていると絶えず出てくるが、それでよいのだろうか。

欲しいもの、かっこいいものを着けていても何か意味があるのだろうか。それによって自信が出たりすればいいのだが、基本は必要に迫られてからでいいのでないか。欲しいものをすぐ買うことに抵抗を持ってしまう何か分からないストッパーが発動するようになっているのだ。

そういったひねくれた考えが浮かんでしまったために買うのを断念し、ウィンドウショッピングに徹した。2時間ほど見た後、ヨーロッパ旅行で添乗員をしていたuさんという人と一緒に昼食を食べることになっていたため、車で梅田まで戻った。

一般道で1時間少々また自分で運転し、梅田の街中へ。中心部は停めるところが難しい。適当な近くのコインパーキングに止めるまでに何度も行っては戻ったりふらふら運転を続けた。優柔不断なため同乗者を含めきっと多くの車・人に迷惑をかけただろう。舵取りを取る船長の精神的成熟度の問題が大きかった。

そしてようやく集合時間から20分ほど遅れて東通り商店街に到着し、uさんと韓国料理屋に行った。店選びにも、自己決定に乏しい3人の20歳代前半草食系男子は商店街を2往復ほどした。uさんも優しいから顔色も変えず付き合ってくれた。

ちなみに1年の春休みに行ったヨーロッパ旅行は12泊14日とかいう長期日程で、10数人の男女織り交ぜた参加者はみなばらばらのグループで来ていた大学生だった。そのため旅行が終わるころには結構話せる感じになっていて日本に帰ってからも何回か集まって何人かで食事をしたり、旅行に行ったりとしている。
たいていは卒業旅行で来ているグループだったため、今は社会人でこういった休みにしか遊べない。

ぼくはこの2年間医学部で試験地獄にはまったり人間関係に・・・と生きぬけるかいっぱいいっぱいで、自分の中の嵐に対処できない日々を送っていて、さらに大阪で集まることも多かったりと参加しない事が多かった。基本人生を楽しむことがへたくそである。自分で悲しくなってる。

だからこういった集まりは勇気がいる。自分の日常の殻を破られる怖さとの戦いは、こういった旅の始まりに心の葛藤として現れる。端的に言って、親の言いつけ通り勉強し、努力することを良しとして多感な時期に自らの欲求を殺してきたために主体性が消えている。なにかしたいことが素直にできないし、目を瞑って見えなくなっている。いや、見ようとしないようにしている。

こういったためにしばしば気分が沈んだりするけれどもこれも人生だ。

ところでkさんは何も言わず、店選びに付いてきてくれた。彼もそういったことに目を閉じる術を生きる知恵として学んでいた。少なくとも表情・態度には出さない術を。

食事中の会話はぎこちなかった。uさんの顔をうかがって会話するのはうまくいかない。ちょっといやそうな顔をしたら自分には分かってしまうのだ。それは困ってしまう特性だ。次の瞬間自分の口に鎖がかかってしまう。
きっと自分の中には見えない番人がいる。自分の感情に鍵をかける番人が。


なんかあまりに口を開かない僕らとの話のネタに困っていたようで、uさんは女性の仕事についての変容の話から現在家庭の食事の話をしていた。大人数で話をすると、話を振られたときにおもしろい事を言わないといけないのかと思ってめちゃ緊張してしまう。
それが自分のハードルをあげ、真っ白な状態で台詞を吐くことになってしまう。心が言葉に乗っていかないのだ。スカスカの言葉しか口をついて出るものはない。

何で自分が生きているのか、たいがいはこういうときにわかんなくなってくる。生きる悲しさ。この思考を引き伸ばさないことが幸福だけれど、この日記では図らずもずるずると取り上げてしまう。

そしてうつろなままuさんと別れ、kさんを自宅まで送っていくことに。人とわかりあい、親しくなるなんてすごく偶然で難しい。もはや20代の凝り固まった私には互いの一瞬の針の穴を通すようなタイミングが必要なのかもしれない。

kさんを送る途中で片道通行の大阪独特の端の曲がり専用レーン(?)を走るタクシーと当たりかけたりとやばかったが、なんとか送って危険な大阪を去ることに。別れ際、見えなくなるまで見送ってくれたあんさんの誠実で優しい人柄があたたかかった。

今の時代、ドライな人間関係が多いけれど、こうやって触れ合う人はどこか寂しさを知っているからか優しい。優しい笑顔の裏には、幾多もの寂しさ、苦労がある。まだ若いけれどもそういったものがだんだんと見えてくるようになった。

友達が一番大事だ。言うまでも無く大事だ。
生きていくことなんて人とふれあい、楽しみ、悲しむことで何倍にもなるし絶対に人がいないと生きてはいけない。いくら人といて気を使っても、それは絶対的なことだ。友達が必要だ。

そしてまた迷いながら近くのガソスタに寄って、大阪から早く逃げようとして乗った阪神高速に乗ったとたんにナビの音声を誤解して高速を降りたりとふらふらして帰った。
高速は隣の隣の市に住むsさんと一緒に帰ったが、sさんに高速を任せることに。
新車ということでsさんも遠慮していたが、いざ運転すると楽しかったようですいすい運転していた。僕も運転を休めて助かった。これから部活でも高速は後輩や先輩に任せたりしようかな。この車は特に高速は乗って楽しい。140から150キロまで簡単に出せる。攻撃力が高い。次はBMWがいいとか思っちゃう。

sさんといると気が楽だ。全然気を使わなくていい。医学部の人といると友達でもどこか気を張り詰めているけれど、sさんだけは別だ。
威張ったとこがないし、馬鹿にした感じも無い。
医学部の人がそんな感じだというわけではないが、プライドが高い人が多いから何か冷戦のようになってぴりぴり胃の痛い思いをしがちなのだ。

僕は運動部にいるから特にそう思うのかもしれないが、縦社会の体育会系的ノリはストレスフルだ。特に自分のような人間はそのノリにちょっと付いていけないことがある。鉄を飲み込み、黙って沈黙という苦い塊を口にはめ込む瞬間が多くなる。

でもsさんはそんなことはない。それは表情・態度で分かる。自分はすぐ分かる。細かい表情のちがいによる微妙な気分の差異が。
sさんは何も言わないと勝手に決めていくところもあるけれど、基本思慮深い人だ。

sさんの家に着き、自分の家まで1時間40分くらいで帰った。その間大音量でカーステレオで音楽を流していた。

アブリル・ラビーンのレット・ゴーを聴いていたがあのアルバムはすごい。

アイドルのようなイメージだったが、このアルバムは1曲目のLOSING GRIPはへビーな音に乗って内面の不安・恐れを吐露した曲で、これが最初の曲である事から分かるように思春期の心情を歌い上げた生々しくエモーショナルなロックアートである。
2曲目のCOMPLICATEDはサビの「なぜあなたは物事を複雑に考えるの?」っていうように悩みの多い俺のような人の心情をまさに代弁している。
そうなのだ。なぜ僕らはいつも物事を複雑に考えるのだろう。
でもこの曲を聴いて悩みの原因が分かった。自分が自分を苦しくしているのだと。
3曲目のSk8er boiは若者らしくハジけた気持ちを歌い、4曲目のI'm with youは自分の孤独で寂しい心を慰めている。
きっとアブリルはセンシティブな心の持ち主なのだろう。
でもこのアルバムが売れた理由が分かった。アブリルがかわいいからではない。MTVが宣伝したからではない。
曲がすばらしかったからだ。アルバムの曲に血が通っている。アブリルが表現者として生きているのだ。人生というものを青春の目線で、リアルタイムに描いた若きアーティストとして。それを実感した。

自宅に何とか事故らず帰り、マックを食べてテレビをつけるとたまたまNHK特集でがんについての面白い特番をしていた。

立花隆というジャーナリストが、自分が膀胱がんになることでがんについて興味を持ち、世界中の権威に会ってがんについての話を聴くという内容だった。

それではっきりした。医学とは掘り下げれば人生、哲学に通じている。自分が知りたい・やりたい世界にまさにはっきりとしたつながりがある。医学を学ぶということはとりもなおさず人生とは何たるかに通じているのだ。

僕は結局のところ、人生とは何かを知ることに1番興味がある。日々生きていて絶えず出てくる問いであるし、まさにライフワークである。生きていくということは、少しずつそのことが分かっていくことではないのか。なんにせよ、その問いに向けて生を続けていかないといけない。

がんとは正常細胞が用いるメカニズムを利用して異常細胞が増殖することによって生じる。がんとはまさに異物であると同様に自分自身である。
まさに敵は自分自身の中にあるのだ。

そして、正常細胞が増殖するのも、異常ながん細胞が増殖するのも紙一重なのだ。誰もが正義と悪を持ち、そしてその180度の違いは表裏一体でわずかな違いなのだ。

がん治療薬を使うことでがん細胞の増殖を抑えることはできるが、正常細胞の分裂も抑え、アポトーシス(細胞死)に向かわせる。まさに人間もそうでないか。いいところ・悪いところは表裏一帯なのだ。決してがんをなくすことはできない。

このようにがんを考えることは人生にあまりにも通じてはいないか。立花さんは、がんの再発率が80パーセントでいつ全身に転移して自分が死ぬかもしれない。でもじたばたせずに自分の中のがんという悪と折り合いをつけて死んでいく、という。

死に行く直前の人は、その最期のときがわかるという。
がんという自分の中の悪と向き合い、赦せたときに自分の人生を認め、人生とはなんだったかが見えてくるのではないか。
結局は無形の力なのである。家族や愛する人と自分がこの世に残した愛をあげ、もらい笑顔を返していく。そして風となって消えていくのである。

じぶんは22歳で、まだ死ぬとか分からないし普段は考えもしない。けれど、行き着くところはそこなのである。
いかにして生きるかは、死について考えないと生まれようが無いのだ。
死に向かいあう医師という職業はまさに人生とは何かを考える職業だ。それこそが自分の根源的欲求であり、医者になりたい素直な願望の動機なのだ。
決して他人には説明することが難しいのだけれど。

まさに医学とは哲学である。考えても考えても奥の深い、すばらしく興味深い学問なのだ。まさに血の通った芸術に値しよう。
そのことを再認識し、一人感動に浸っている旅から帰った3連休の最終日だった。