自責感が萌芽する時

今日も図書館生活だ。


朝、天気が悪く、METALLICAのFADE TO BLACKでも聞こえてきそうな気分だったため、ぐずぐずしていたら
起きたのは8時半ごろだったにかかわらず勉強開始は11時くらいだった。

なかなか計画が進まん。
MECの公衆衛生の高橋先生は、けっこう硬い人かと思いきや面白かった。

予備校教師は芸人のようなものだ、と浪人していた河合塾の国語の先生が言っていたのを思い出した。
三苫先生はけっこう硬い、というかひたすら講義だからしんどい。
この先生は具体例がすこし面白い。


夜、勉強部屋に行くと久々に見る同じ部屋の人と会った。
私は自分に自信がないのと、プライドから自分を守っているので人に対して反応が薄くなるようだ。

同じ部屋の人の何人かは、嫌われていると思う。表情からと、あいさつもないその言動を機敏に察知する内向的な私。
しょうがない、私はそんな彼ら(全員ではないが)といたら比較して、いないほうがましとかだとか自分を悪く思ってしまうから今はこの部屋にいることはできない。微小妄想が苦しめるから。

図書館でも少しの物音も気になってしまうのでずっと耳栓をしているし、話しかけられたり、見られるのを極端に恐れる。
人嫌い、と思われても無理はない。

これで大丈夫なのだろうか。


このブログも、出来が悪いとかずっと書いているせいで、勉強できない、勉強しない、結果を出さない言い訳のようなものと取られてしかたのない、潜在意識に対する甘えを助長しているのかもしれない。
生物学的に男は気が小さいというが、ここまでくるのも本当に大変だった。
同級生におびえ、先生やテストにもおびえてよくここまで育ってきたものだ。


関係ないが、ポリクリで感じたのは男の先生のほうが、女の先生よりも出来も悪く、自信もなくおどおどしている私のような人間に割と寛容だったということだ。(若い女の先生は除く、理由省略)
それは、男のほうが弱いから、弱い人間に対して優しくなれるのではないかと思う。自分の情けない、弱い面を痛感している分だけダメ人間に一概に否定的にならないというか。


私の主治医の女医のような、評価的判断を患者に向ける医師は国家試験の必修問題で×になるはずなのだ。
残念ながら彼女は試験をパスして、医師になってしまっているが。
まあ100%感情を排して冷静な医師なんていないとは思いますけれど。



一生懸命努力しても、自信はなかなかつかないし、私は人より自信を持てるようになるまで時間はかかることを知っている。
しかし、高校の部活の先生が言っていたように、いったん物事の自信・コツをつかむとと強い。
勉強も、もう少しのところだ。
前までのようにやみくもにやって効果が薄い実感しかないことは、今はないと思う。(希望的観測であれば悲しいが・・)



これまで、4月から7か月半間よく頑張った。
人間関係も、勉強も・・
不安しかなかった私が、国家試験を受ける寸前まで来たことだけでも十分価値のあることだと思う。

あと70日と少し、もう少しだ。

国家試験だって、いつかは受かるものだ。
明日も、もう一回計画を考えながら元気にご飯を食べよう。